雨が私を敲いてる。
空白の記憶
体に何かが降りかかる感触。私はそっと目を開いた。
目に飛び込んできたのは濃い灰色の空で、そのくすんだ色から伸びるように何かが落ちてくる。
顔に落ちてきたそれが、水だと気付くのに時間は要さなかった。
私は息を吐いて、力を抜いた。やたら体がだるかった。
そして体を起こそうとすると、その瞬間に体に鈍い痛みや鋭い痛みが走った。
顔を顰めて、それが何処からか考えるが、あちこちから体は痛みを訴える。
どうやら全身、傷だらけらしい。視界もやけに狭いし、顔にも怪我をしてるのだろうか。
傷を見る術も余裕もなく、私はすべて推測に頼るほかなかった。
少しでも動けば、痛みが全身を貫き、私を苛む。
それに目に入る雨も鬱陶しくて、私は目を瞑った。
目を閉じると不規則で単調な雨のリズムがやけに面白く聞こえた。
暗闇でそれだけが強調される、独特の面白さがあった。
束の間、それを楽しんだが、それにも飽きてしまうと私は暇になった。
雨はしとしとと静かに降り続けている。
どれほどの時間が経ったのかさえ、分からなかった。
太陽を覆っている雲からは時間を推し測ることなんて私には出来なかった。
苛立ちを感じ始めた私は、動くことも出来ず、ただ時間を過ぎていくのを感じながら、空を眺めた。
一瞬、このまま死ぬのかと過ぎった。
それでもいいなんて思ったのは何故か分からない。ただ、ぼんやりとそう考えた。
そんな時、音がした。私は目だけ動かす。
姿は見えなかった。そして唸る声が聞こえる。
やっと姿を確認した。黒い雲が集まったようなもやもやした姿。
それは人間の頭部の骨をかろうじて思わせる形だった。
そして、それは明らかに私を標的にしていた。
再びそれは咆哮をあげると、私に向かってきた。
私は成す術もないまま、相手が私に襲いかかろうとするのを時間がゆっくりになるような間隔に陥りながら見ていた。
もう少しで相手が私に攻撃を加えようとしたとき、誰かが私とそれの間に割って入った。私は思わず瞠目した。
長い茶色の髪が視界で揺れた。一瞬で、私に襲い掛かってきたはずの怪物が霧散し、私を助けた誰かが振り返る。
綺麗な女性だ。思わず私は見惚れた。
「大丈夫!?」
彼女が私に近寄り、私を抱き上げた。
全身に痛みが走り、反射的に私は目をぎゅっと閉じた。
死なずにすんだのかと思うと、複雑な気分になった。安心したのか、落胆したのか分からない。
そしてそのまま眠りの世界に私は身を投じていた。
次に目が覚めたときは、少し混乱した。
視界が更に狭まっていた。片目しか開かず、焦りを覚えた。
けれど、何故かはだんだん分かってきた。
片方の目のほうに何かが巻きついてる。大方、包帯だろう。
そしてやっと、辺りを見る余裕が私の中に生まれた。
あたりは白かった。カーテン、壁、ベッド。色づいたのは棚とテーブルくらいで、ひどく殺風景だった。
「・・・起きたかな?」
男の人の声がして私は声の主を探した。
片目だけの所為か、やけに姿を確認するのに時間が掛かった。
姿を確認したとき、ばたんとドアの閉まる音がした。
「怪我は全部治療したよ。バイラスに教われたそうだね。大丈夫かい?」
私は一気に言われて混乱した。
バイラス、怪我、治療・・・。バイラスが何か分からないが、それ以外は何とか話が分かり、私は小さく頷いた。
「そうか。それにしてもひどい怪我だ。バイラスにやられたのかな。」
私は少し考え込んだ。何処でこの怪我を受けたのだろう。
私の記憶は雨の音しか思い出せない。
「・・・思い出せないか?」
私は躊躇った後、頷いた。
私の記憶は雨で目が覚める前の記憶が無く、そこから始まっていた。
「そうか・・・脳のほうに障害は無いと思っていたんだが・・・。」
彼が話すことによると、私は怪我を受ける際に頭を強く打つか、もしくは精神的ショックによって全健忘を引き起こしたのではないか、ということらしい。
どれも私には身に覚えが無い。思い出せなかった。
「君はどこにいたか思い出せるかな?」
そう聞かれ考えると、目の前に闇が広がるのを感じた。
まるで私の思考を食い止めるかのようだった。
私は思わず、はっとして医師を仰ぐ。彼は小首を傾げ、どうしたのか聞いた。私は首を横に振り、何も思い出せないことを伝えた。
彼が考え込むように天井を仰ぎ、質問を続けた。
いくつか質問したところで、急にドアが開いた。
「・・お父さん!」
元気な声で呼ぶ声に私は瞬時に彼の娘だと判断した。
可愛くて元気な子だ。その笑顔には愛嬌がある。
年齢は五、六歳と言ったところだろうか。
「アニー、さんは呼んでくれたか。」
アニーと呼ばれた少女は頷く。
どうやら、先程出て行ったのはこの少女だったようだ。
続いて入ってきたのは、私を助けてくれた女性だった。
私は驚きながら、彼女を見つめた。
彼女は私を見てほっとしたような表情を一瞬浮かべ、微笑んだ。
けれど、それはすぐに消えて、精悍な顔つきへと戻る。
どちらの表情でも綺麗な人だと思えた。
彼女は私を親元に届けたいと進言した。
私は複雑な気分になった。なにせ、自分でも何処にいたのかわからないのだから。
彼女の発言に医師も顔を険しくさせた。当然といえば当然だろう。
医師は先程、私に聞いたことを彼女に伝えた。
彼女は伏し目がちに俯き、そうですか、と残念そうに言った。
私のことを心配してくれてるのだと思うと、申し訳なさ半分、嬉しさ半分で、私は複雑な気分だった。
医師も苦々しげにさんを見つめていた。
すると、急に彼は振り向いた。
「そういえば名前を聞いてなかったな。覚えてるかい?」
思い出せないことを前提に聞いてるような口ぶりだった。
私も思い出せないだろうと考えながら、記憶を探った。
だけど、それに反して唇は動いていた。
「・・・。」
自分の声が出たことに驚き、そして同時に確信した。これは私の名前だ。
「それが君の名前か?」
私は頷いた。
何故か分からないけれど、私の名前はこれ以外にありえないと確信を持っていた。
「・・・珍しいな、大抵は名前も忘れている事が多いのに。」
意外そうに彼は言うと、手に持っていたものになにやら書き込む。
傍らのアニーは驚いたように私を見つめ続けていた。
「お姉さん、話せたんだ・・・。」
彼女は茫然としながら呟いた。
すると何を思ったのが、彼女は父である医師を仰ぎ見た。
「暫くはこの病院にいるんだよね、お父さん。」
父を見上げて、無垢な瞳を輝かせて彼女は聞いた。
医師は彼女の考えが分かったらしく微笑んで頷いた。
すると、嬉しそうに私を見た。
「よろしくね、さん。」
彼女の考えが分からず、私は困惑しながら、彼女を見つめた。
アニーは、にこにこと機嫌が良さそうに笑っている。
すると、医師が更に私に質問した。
「他に何か覚えてることないかな?」
私はアニーから目を離して、暫く考えた。私は何も覚えていない。
何度もそれを確認すると、私は首を横に振った。
「そうか・・・。じゃあ、怪我が完治したら、孤児院に行くことになるな。」
私は孤児院という箇所に引っ掛かりを覚えた。
私は今どんな姿で彼らの前にいるのだろう。
少なくとも、小さな子供なんだろう。
そう思うと何故か、そんなわけ無いと否定したくなった。
「待ってください。」
急に声がして、考えることに埋没していた私の意識が戻る。
目を上げると医師が首を傾げて、さんを見た。彼女が言ったようだ。
私も続いて、さんを見る。彼女も私を一瞥すると、医師に向かって言った。
「・・・彼女を、私が引き取ってもいいでしょうか?」
私は流石に驚いて目を見張った。
彼女は随分と若いように見えるし、第一、彼女は私を助けただけなのだ。
どう考えても、彼女が私を引き取るというのは変なことにしか思えなかった。
「うーん・・・彼女に聞いてみないことには・・・」
医師も言葉を濁して、意味ありげに私を見た。
もちろん、瞳は彼女のもとへ行くかと聞いていた。
私に行く場所なんてなかったから、躊躇いがちに別にいいという意味で頷く。
声に出すことは何故か憚られた。
「彼女が望むのならいいが・・・君は若いのにいいのかね?」
医師が確認を取るように聞いた。
さんは迷わずに頷いた。そして一言付け加える。
「見た目ほど若くないですから。」
どういう意味だろう。
彼女の言葉は何かを隠しているように聞こえた。
ようやく二人の話が終わると、アニーがベッドに近寄ってきた。
「それまでは私と遊ぼうね、さん。」
どうやら、それを狙っていたらしい。
漸く、彼女の意図を理解した私は更に困惑した。
何をして遊ぶというのだ。
そんな私には気づかずか、アニーはにっこりと笑った。
けれど、アニーの笑顔は可愛くて、当惑していたはずの私は思わず笑い返していた。
そして、さんが帰ってから、医師に鏡をもってきて欲しいと頼んだ。私は自分の顔さえ覚えてなかったから。
彼は快く、鏡を持ってきてくれた。
鏡を見ると、そこにいたのは見覚えのない片目に包帯をした八歳くらいの幼女だった。
2006-05-11 Written by mizuna akiou.