それは遠い日の笑顔







そいつは不思議な奴だった。
何処にでもいるような奴だったのに。

それがいつだったのか。
はっきりした記憶は既にない。
ただ、あいつはそこにいただけだったんだ。

学校の水道で顔を洗っているときだ。
なにやら人の気配を感じた気がして、顔を上げれば、そいつがいた。
不思議そうにこっちを見て、すぐに眼をそらした。
そして、鞄を背負いなおすと歩いていってしまった。
俺もこういうことは度々あったから、気にせず顔を拭いた。

そのあと、ずっと、その記憶は忘れていた。
思い出したのはずっと後だ。
そいつが自分にとって無関係とは言えなくなったときよりも、ずっとずっと後。
自分にしては珍しいことだと思うが、別に気にはしていない。
思い出したとき、そういえば、あいつだったのか?と疑問の形だった。





次にあったのは教師が指名した数名で居残りをさせられていた。
記憶から消えていたから俺は初対面だと思い込んでいた。
そいつと最後二人きりになったが俺は相手の顔は見ていなかった。
クラスも離れていたし、話すことなど何もなかったから終始無言だろうと思っていた。

けれど、そいつは手を止めて、じっと自分を見つめた。

たまたま気がついたが、そのまま無視した。
暫く、あいつは自分を見つめて、ぼそっと口を開いた。

「・・・心地いいな。」

予想外の言葉に目を上げると、あいつは笑った。

「ああ、気にしないで。」

そう言うとあいつはすぐに作業に戻った。
俺も暫くあいつを見つめていたが、すぐに作業に戻った。
結局、言葉を発したのはそれだけで、あいつだけだった。
それから、しばらく会うことはなかった。




それからクラス替えがあった。
変な奴だと思って、印象に残っていたから、すぐにそいつだとわかった。
名前はだと、自己紹介のときに知った。
そのあと、クラス投票でそいつと俺が学級委員に選ばれていた。
あいつはクラスの中心ではあったし、いつも笑ってた。
だけど、あの放課後のときの笑みとは到底掛け離れたものだった。
学級委員ともなれば、クラスの雑用を頼まれることはしばしばあった。
それをとやることもあったが、大抵、俺もあいつも話すことはなかった。

次に話す機会があったのは、学級委員になってだいぶ経っていた。

「・・・やっぱ、心地いいなぁ・・・」

あいつはシャーペンをくるくる回しながら呟いた。

「何が?」

返事が返ってくると思わなかったのか、はきょとんとした顔をした。
そして、いつかの放課後の居残りのときと同じように笑った。

「百目鬼といるときの空気が、だよ。」

わけがわからず、じっとを見ていると、は相変わらず笑っているだけだった。




それから少しずつ、話をするようになった。
いつの間にか、あいつは俺を静と呼ぶようになっていたが、別に気持ち悪くなかったから放っておいた。
何故か、俺もと呼ぶようになっていたからというのも、あったかもしれない。
でも、話をするのはいつも雑用をする二人きりのときだけだった。

「静がもてるのはよくわかるよ。」

はとんとんと机で紙類を整えながら呟いた。

「いきなりなんだ。理由を言え。」

俺も名前にチェックを入れながら聞いた。
は放課後だけに見せる笑顔で笑った。

「だって、傍にいると何だか心地いいんだ。」

はそう言ったが、に会うまでは自分といるのが心地いいという人間に会ったことはなかった。




変な奴だった。
だけど、それはどっちかというと不思議な感じだった。
そして、最後まで気がつかなかったんだ。
俺がといるときのことに対して、と同じ感想を持っていたことに。
あいつといるのが心地よかったことに俺は気がつかなかった。




最期に会ったあいつは今なら分かることだが、淋しそうだった。
茫然と天井を眺めたり、伏し目がちになったり、らしくなかった。

「どうしたんだ?」

聞いても、笑って、首を振った。

「なんでもないよ。少しだるいだけ。」

夏に近付いていた学校は蒸し暑かった。
その所為で、頭がぼーっとしていたのだとは説明した。
暫く、沈黙した後、は小さく聞いた。

「ねぇ、最初に会ったときのこと、覚えてる?」

頷くと、いつ?とは聞いた。

「去年、居残りさせられたときだろう?」

そう聞くと、は小さく笑って、そうだね、と相槌を打った。
下校を促す放送が入った。
俺もも鞄を背負って、教室に鍵をかける。

「じゃあ、静。ばいばい。」

正反対の方向だったは別れ際に手を振った。
俺も適当に返すと、踵を返して、まっすぐに家へと帰った。




次の日は休みだった。
だけど、寺の方は休みじゃないらしく、父が行ったりきたりを繰り返していた。
それを見ると、どうやら今日はお通夜らしい。
父が、名前を書いた。様、と木製の看板に筆で書かれた独特の文字が書かれる。
俺は暫く名前を見つめた。
あいつと同じ苗字ということは、あいつと関係があるのだろうか。

「・・・誰の通夜なんだ?」

父に問うと、父はそういえばという顔をした。

ちゃん、って言う子だよ。静と同じ歳だ。」

可哀相になあ、と父は付け足した。
俺はじっと父を見上げていた。
、と父は言っただろうか。
父や母には学校でのことを滅多に話さなかった。
だから、俺とに接点があるなんて思いもしなかったのだろう。
父が去ったあとも、俺はそこに立ち尽くしていた。




お通夜には、俺も参加した。
俺の両親は驚いていたが、クラスメイトだと告げると納得して、複雑そうな顔をしていた。
の両親は俺のことを知っていた。
あいつがよく話していたらしい。
彼らは突然の娘の死に真っ赤に目を腫らして涙を流していた。
どうやら、はトラックに撥ねられたらしい。
幸い、外傷はなかったのだが、打ち所が悪かったのか、運ばれた先で間もなく息を引き取ったらしい。
顔を見た。は眠っているようで、揺り起こせば起きるのではないかと思った。
お通夜には、俺以外のと仲が良かった子もを見るなり、そのからだを揺すりだした。
がいなきゃ、毎日が退屈になるじゃん。寝てないでおきなよ。まだ若いんだよ。どうして・・・。
彼女はそこで口を噤むと、わっと泣き出しての棺に縋りついた。
なんでなの。いい子だったじゃない。何も悪いことしてないのに。
私が居残りしていたら一緒に残ってくれて、でも私はのときは知らない振りしちゃったんだよ。
どうしてくれるのさ・・・。借り、返せないよ・・・。
彼女はずっと呟き続けていた。そんな風にあいつのためになく奴は他にもいた。
改めて、あいつには友達が多かったのだと気付かされた。
けれど、お通夜が終わった後、葬式へ移る頃には、彼らはなんだかすっきりしたような顔をして、遊びに行く約束などを友達を交わしていた。
あいつが火葬されるのを見届けたのは、遺族と俺だけだった。




それから、だ。
あいつとの本当の出逢いを思い出したのは。
今思えば、あれはに間違いない。
二ヶ月もの時が過ぎ、夏休みも終わりを迎えた頃、俺はそこへと向かった。
水道の蛇口の並ぶ石造りの手洗い場から、俺はあいつを見た。
そのときの記憶を鮮明に思い出して、俺はその場に立ち尽くした。
手洗い場に近付くと、何かメモが貼り付けてあった。

「静へ」

見慣れた字が目に入って、目を見開く。
の字だった。
震える手で、それを取った。
たった一行、言葉が並んでいるだけだった。

「静といた時間は、本当に楽しかった。」

、と下に添えるように書かれていた。
は知っていたのだろうか。
自分が突然命を失うことを。
あの日、トラックに撥ねられて死んでしまうことを。
自分が死んだあとで俺が自分のことを思い出すと、ここに訪れると。

答えてくれる人物は、もういなかった。












それから、幾月かの時間が過ぎた。
いつからか、一緒に還るようになった阿呆がそこにいた。
いつもと同じように文句を言う阿呆はいつものように騒がしい。

「なんで、こんな鉄面皮を帰らなきゃいけないんだよ!」

聞きなれた言葉を無視すると、そいつが急に立ち止まった。
足を止めて俺が振り返る。

「どうした?」

聞くとそいつは顔を顰めた。

「本当にお前ムカつく。」

そういいながら、すたすたと横を通り過ぎる。
さっぱりわけがわからない。
じっとそいつの後姿を見つめていると、急に振り向いた。

「ありがとう、だってよ。」

かなり嫌そうに、阿呆は言った。

「・・・あ?」

今度はこっちが顔を顰めると、阿呆は更に顔を顰める。

「なんか知らねぇけど、お前と仲が良かったとか言う女の子から、だよ。」

女。ひとりしか思いつかなかった。
こいつが霊感体質だったことを咄嗟に思い出す。
そのとき、俺がどんな顔だったかは知らない。

「・・・それだけか?」

聞き返すと、阿呆は小さく頷いた。

「そうか。」

呆けている阿呆の隣を過ぎようとしたとき、阿呆は痛ましげに俺を見たが無視した。
俺は何故かはわからないが、どこか腑に落ちない気分だった。
に、そう言ってもらいたかったのだろうか。
そして、あいつは何を知っていたのだろう。
自分の考えに埋没していると、阿呆が傍にいなかった。
早く来いと言おうと思って振り向こうとすると、阿呆はいきなり大きな声を出した。

「あ。」

「なんだよ?」

口から出かけた言葉を飲み込んで聞くと、阿呆は頭を掻いた。

「あと、あの子は・・・ちゃんと成仏したよ」

顔色を窺うように、阿呆は言った。
暫く反芻させ、何かよくわからない気持ちが湧き上がった。

「・・・そうか。」

その気持ちを振り払うように、そのまま歩き出すと、阿呆は急いで俺の後を追ってきた。
四月一日はそれ以上、何も聞かなかった。




―静、ありがとう。・・・ちゃんと、成仏したからね。

反芻させるとの声が伴って聞こえた気がした。
何も分からせないままで逝ってしまうのも、あいつらしい気がした。
こっちこそ、礼を言いたい気分だった。
小さく、口にした言葉は届いたかは分からない。
でも、きっと届いたなら、笑ってるだろう。
友達に見せているときのような、緊張を含んだ笑顔じゃない。
放課後、俺といるときに見せた安心するような笑顔で。

俺は空を仰いだ。
そして、阿呆を見る。

「明日は、稲荷寿司。三角のやつ。」

「またかよ!しかも、命令か!!」

阿呆が憤慨するのを背に、俺は小さく笑った。




2006-07-16 Written by mizuna akiou .